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ド底辺から業界3位までDDTを育てた男・髙木三四郎が語る「ど底辺から立ち上がる方法」

(写真・髙木三四郎選手のXより引用許諾済)

 

■底辺の中の底辺から這い上がるヒントは世界最大のプロレス団体にあった

 

 イベントプロデューサーとして辣腕を奮っていた髙木と、プロレスが再び結びついたのは、横浜市鶴見区の屋台村・ヨンドンで定期的に行われていた「屋台村プロレス」である。これに髙木は広報として関わっていた。熱が蘇ったのかのように、大学を卒業後IWA格闘志塾に入門した。トレーナーの鶴見五郎は国際プロレスで活躍した名レスラー。当サイトでも以前紹介した佐々木貴<https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/2836776/>も鶴見の下でレスラーとしてのトレーニングを積んでおり、髙木も佐々木同様、鶴見の下で徹底的に鍛えられた。

 1996年にPWC※2)でデビューするも、同団体は翌年に解散。インディープロレス界にはつきものの金銭問題や人間関係のトラブルを目の当たりにし、プロレスへの意欲をなくしてしまう。一時イベント業へと戻っていくが、PWCで一緒だった野沢一茂(現・NOSAWA論外)(※3)が再び髙木の心を動かした。「俺たちで団体作りましょうよ!」という野沢の誘いに心を動かされ、DDTプロレスを設立した。

 DDTは「ドラマティック・ドリーム・チーム」の略であり、旗揚げ当時からプロレス界のトップを取ることを目指していた。しかし物事は思った通りには進まない。

 「大仁田厚さんが立ち上げたFMWもそうですし、W★INGさん、大日本プロレスさんもですけど、当時のインディープロレスってぜんぶメジャー(全日本プロレス・新日本プロレス)出身のレスラーが旗揚げした団体なんですよ。その点僕たちはデビューもインディーですから、“インディーの中のインディー”。どインディーなんですよ。あの頃ってインディーから育った人が団体を旗揚げするなんてなかったですね」

 髙木が言うように当時のプロレス界は、新日本プロレスと全日本プロレスの二大メジャーを頂点に、大仁田厚のFMWがインディーの雄として君臨していた。この他には、全日本プロレスからSWS※4)へと移籍した天龍源一郎が立ち上げたW.A.Rや元全日本プロレスのグレート小鹿やケンドー・ナガサキの大日本プロレスなどが旗揚げしており、インディープロレス界は群雄割拠の時代になっていた。

 そんな中、知名度もなければ団体としての基盤も弱いDDTは誰にも見向きもされず、プロレス専門誌すら取材に来なかったという。当時のDDTは、総合格闘技でそこそこのキャリアを持つ先輩レスラーに若手選手がぶつかっていく格闘技路線。今とは毛色がまったく違うスタイルであった。

 「99年くらいまではどちらかというと地味なスタイルでした。ひたすらスーパー宇宙パワー(※5)さんとかスーパーライダー(※6)さんとかにボコボコにされてましたね」

 デビューして1年そこそこの若手レスラー相手に先輩レスラーが格闘技スタイルで戦う試合は盛り上がるはずもなく、NOSAWA論外はDDTを離脱してしまう。当時のDDTの年商は約500万円、経営が非常に厳しい状態であった。

 しかし、髙木はどん底から這い上がっていく。

 「あの頃は、特色もカラーもなく、若手が頑張ってるだけの団体でした。それだと潰れるという危機感があって、他とは違う特色を作らないとダメだと思っていました。当時WWF(現WWE)がすごい人気だったんですけど、 自分たちではあそこまでの規模感やエンターテインメントは絶対無理です。でもWWFを日本流にアレンジした感じで、さらにバラエティー要素を加えたらできるんじゃないかと思って、今の路線に切り替えたんです」

 それが現在も続く「文化系プロレス」の原点である。文化系プロレスとは、従来のプロレスと一線を画したプロレスだ。メジャーと呼ばれる団体のプロレスは勝負論にこだわり、決着までの戦いを観客に見せている。しかしDDTは勝負論にこだわらない。お笑いもあれば、ほっこりするドラマもあるというようなバラエティー色の強いプロレスなのだ。髙木は観客目線での徹底的な作り込みと、時代の一歩先を行く斬新なセンスで団体を盛り上げていったのだ。

 「路上プロレスを始めた当時は、プロレスファンからめちゃくちゃ反発されました。あの頃はDDTの事務所が自分の家、つまり自宅の電話番号がDDT事務所の番号だったわけです。もう昼夜問わずプロレスファンから、いたずら電話ばかりかかってきましたね。出ると『お前ら誰に断ってプロレスやっているんだ』みたいな言われ方して、『すいません。すいませんね』って謝ると切れたりとか、『お前らのせいでプロレスが馬鹿にされる』なんて誹謗中傷がきたりしていました]

 しかし髙木はそうした罵詈雑言に負けることなく「文化系プロレス」を進めていった。その成果の一つが2009年に行われた両国国技館大会である。

 「当時のインディー団体ってみちのくプロレス、バトラーツ(※7)などが両国国技館に進出していったんですよ。でも単発で終わるケースばかりだった。お客さんには『次も見に来る』っていう心理が絶対働くって思ってたし、その時間だけが楽しくて、その次が見えないのでは、継続して興行が繋がらないんですよ。2009年両国のエンディングで『次もやります!』って言ったらお客さんどよめいたんです。『またやるんだ!』みたいな」(髙木三四郎著『年商500万円の弱小プロレス団体が上場企業のグループ入りするまで』より引用)

 DDTは、2009年以降も両国国技館大会を開催。2013年には2日連続で興行を行い、連日超満員の観客を動員。業界トップの新日本プロレスにも負けないほどの集客力を持つようになった。

 

※2 PWC:元新日本プロレスのジョージ高野と高野俊二兄弟が設立したプロレス団体。杜撰な資金管理や経営状態が続いて事実上解散した。

※3 NOSAWA論外:髙木三四郎の盟友であり元プロレスラー。メキシコで活動した後、全日本プロレスやNOAHのリングに上がった。2023年に引退。

※4 SWS:メガネスーパーが経営していたプロレス団体。当時は「金満プロレス」とファンから批判されたが、時を経て再評価されている。

※5 スーパー宇宙パワー:本名は木村浩一郎。ヒクソン・グレイシーとも対戦経験がある格闘家。

※6 スーパーライダー:本名は渡部優一。武道団体・掣圏真陰流興義館の館長。元プロ総合格闘家で修斗初代ウェルター級チャンピオン。

※7 バトラーツ:藤原喜明の弟子が旗揚げしたプロレス団体。「パチパチプロレス」と呼ばれ、人気団体となるも2001年に活動休止。2010年に解散した。

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篁五郎

たかむら ごろう

1973年神奈川県出身。小売業、販売業、サービス業と非正規で仕事を転々した後、フリーライターへ転身。西部邁の表現者塾ににて保守思想を学び、個人で勉強を続けている。現在、都内の医療法人と医療サイトをメインに芸能、スポーツ、プロレス、グルメ、マーケティングと雑多なジャンルで記事を執筆しつつ、鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏から文学者について話を聞く連載も手がけている。

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